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J鉄局の珍車ギャラリー

JR九州 50系1000番台

ギャラリー

「仲間たちへのレクイエム。」
−JR九州 50系1000番台
冷房改造車

50系客車は、普通列車に供される一般型客車です。
1977〜82年に 新潟鉄工所・富士重工業 で
953両製造されました。
(オハ51、マニ50などを含む)
北海道を除く、全国に配属された
オハ50、オハフ50形(335/488両)は。
従来の旧型客車と同様、
客室とデッキとの間に仕切り扉がある2扉車です。
扉の幅を1,000mmと拡げ、
両端をロングシートとしてはいますが、
旧型客車と混結することもあって最高時速は95km/h。
台車はコイルばね(TR230)で、なんと冷房はなく、
暖房は機関車に搭載される蒸気発生装置 (SG) から
蒸気の供給を受ける方式。
(一部、機関車から電気の供給を受ける
電気暖房装置を併設する2000番台もあり)
つまり旧形客車と同じです。
そしてなんとトイレまで旧型客車と同じく垂れ流し。
通勤通学時間帯に使うのにもかかわらず、
朝の貴重な時間を少しでも早く快適に…
という、お客様の声を見事に裏切った新車でした。

1977〜82年といえば、
ロングシートの通勤形車両でも冷房は当たり前。
いったいなぜ
このような時代錯誤の車両が造られたのでしょうか。

1950年代後半から60年代にかけて、
動力の分散化(客車→気動車/電車化)が謳われ、
座席客車は長く増備されることはありませんでした。
それでも、急行用に12系(1968年〜)
特急用に14系(1972年〜)が増備されました。
対して普通列車用はというと、
1959年以降全くなく、
気動車や電車に移行していました。
といいたいところですが、
12系などによって淘汰された旧型客車(43系など)が
各地で普通列車に使われていました。
急行にも使われていたものですから、
デッキ付きの2扉車です。
通勤時には全く適していません。
自動ドアでもありませんから、
開け放たれたデッキに鈴なりの乗客が
しがみついていた光景が思い出されます。
さすがに国鉄もこれは何とかしなけりゃあイカンと
18年ぶりに普通列車用座席客車を投入します。
これが50系です。
でもなぜ、気動車や電車を導入しなかったのでしょう。

当時の国鉄が真っ先に考えなければならなかったこと
それは経済性でした。
動力装置が不要の客車は、
製造コストが気動車や電車よりも格段に安い。
通勤通学時間帯運転されていた
長編成の客車普通列車の置換えには、
貨物輸送量の減少で余剰となっていた機関車を
有効利用すれば、低コストで
輸送力増強やサービス改善ができると考えたのです。
そのとおりですね。

加えて気動車や電車による動力近代化計画には、
労働組合が反対していました。
客車はその大半が客車区、客貨車区の配置となっており、
50系が配置されなければ、統廃合が進められたでしょう。
職場を守ろうとする
組合の要望も納得できます。

組合の要望はオハフ50形にも反映されていました。
自動ドアの開閉操作を行うため車掌室に加え、
もう一端にも業務用室を設置したことです。
緩急車(オハフ)の数も従来よりも増やし
業務の効率化を図ったわけです。

でも、名鉄では乗務員室に戻らなくても
客室内でドアの開閉ができるよう
戸閉装置が設置されています。
これをオハにも取り付ければ、
乗務員室なんて二つも要らないし、
オハフを増やす必要もありません。
その分、客室にすればもっと乗客は楽になるし、
車掌さんもこのほうが移動距離が減るわけです。
そう思いませんか。

乗客目線で考えたら、
50系などではなく12系の近郊形。
つまりキハ47、できればキハ66の車体をもつ
戸閉装置付き両開き2ドア冷房客車を投入し、
乗客離れをくい止めるのが
最善の策ではなかったかと私は思います。
いくら職場が確保されても
50系が有効利用されなければ、
いずれ自分の首を絞めることになるのです。

参考文献によりますと、国鉄当局は、
客車列車が気動車、電車に優位に立てるのは6連以上
という見通しのもと計画を立てています。
しかし、その後の運行実体はというと、
6連に満たない列車が多く存在し、
F級の電気機関車が2両の50系を牽引するという
笑えない実態もみられました。

結局、車両基地からあふれ出し、
駅の側線などで身をもてあまし朽ちていった
大量の50系…。

そんな姿を思い出すにつけて私は、
戦うべき敵を見失い、
海軍と陸軍とが机上の空論をしていた
かつての大本営をつい連想してしまうのです。
もっと現場のことを考えていたら、
傷口をここまで拡げることはなかった と。

民営化以降、
JR 各社はその負の遺産に苦慮しています。

JR四国では、ラッシュ時対策として、
1988年、50系のデッキと客室の仕切りを撤去、
ロングシートを拡げました。
しかし焼け石に水だったのでしょうか。
客車列車は改造の二年後、90年11月に廃止されます。
JR四国のみならず、
非冷房車だった50系の多くは
8〜12年という短い生涯を終えることになります。

JR九州には50系が90両継承されました。
JR九州でもその数を減らしつつあった50系ですが、
JR九州には50系に一番必要なものが
何かわかっていました。
冷房です。
1991年にやっとこさ冷房改造車が登場します。
それが今回の珍車。50系1000番台です。
(車番は原番号+1000)
電源は床下搭載のディーゼル発電機から供給、
また同時に暖房もここからの給電による
電気暖房に改造され、
SGを装備しない機関車牽引時でも
暖房が使用できるようになりました。
しかし、わかっていたのなら、
どうしてもっと早く手を打たなかったのでしょう。
実は1000番台の冷房装置は
783系電車のもの流用していました。
783系のAU400K(30000kcal)では不足とわかり、
38000kcalのAU402K への換装が進んでいたことから、
これを再活用することで成り立った冷房改造車でした。
海峡号としてJR北海道で再起することになった
冷房改造車5000番台とは違い、
電源も自前で準備しなければならないのが
1000番台です。
発電用エンジンだって、マツダ゙製。
トラック「タイタン」と共通のHA30形です。
ラッシュ時には活躍するものの昼寝していることが
多かった50系に多大な投資はできなかったのです。

結局、改造されたのは
オハ50が6両、オハフ50が13両でした。
筑豊本線・鹿児島本線・久大本線で運用されましたが、
思うような効果が得られなかったということでしょう。
AU400Kには余裕があったものの、
JR九州は、それ以上
1000番台を増備することはありませんでした。
それでも垂れ流しトイレを何とかすべく、
2000年夏以降はオハフ50のトイレを使用禁止とし、
循環式トイレを設置したスハフ12を
最後尾に1両増結するということまでしました。
JR九州は乗客のために、ひいては
50系のために手を尽くしてくれたと思います。

翌2001年10月、福北ゆたか線の電化開業に合わせ、
最後まで残った50系客車列車は
(門司港、若松−飯塚)
JR九州から姿を消すことになりました。
飯塚−博多間の「赤い快速」キハ200系に比べれば
地味ではありますが、
50系1000番台はキハ66系とともに、しっかりと
そのバトンを813系817系電車に引き継ぐ
使命を果たしたといえるのではないでしょうか。

900両を越える仲間たちが
無念な思いを抱いて姿を消しました。
5000番台もそうですが、1000番台もまた、
そんな仲間たちのことを思いながら、
最後の仕業に就いた…。
私には そんな気がしてならないのです。

参考文献:鉄道ピクトリアル
2007年2月号 #785,「特集 50系客車」
1992年10月号 #566,「新車年鑑」1992年版 P82